2007年5月7日月曜日

日本海航路の拠点であった佐渡


明治までの上方からの奥州航路は、
大阪→ 瀬戸内海→ 下関→ 佐渡島→ …
であり、この日本海航路が日本経済の中枢を占めていました。当時は、佐渡から全国経済を見渡すことができました。

新潟港をめざす船もたいていは風待ちなどで佐渡に寄港しました。

佐渡の言葉が上方アクセントになっていて、越後弁とことなるのはこのためです。上方文化のあとは、村々の能舞台や京都をおもわせる家屋にしのばれます。

また佐渡は天領(幕府直轄領)でしたから、大量の江戸文化も入りました。

こうして、地の文化は上方文化で、支配層の文化は江戸文化となりました。

ゆったり生活できる天領であり、2大文化の洗礼を受けたためか、島民の気風は、越後とちがい、温和でのんびりしています。対馬暖流が島をめぐっているせいで、雪もさほど降りません。

越後は佐渡には関心を示さず、上杉謙信がはじめて占領しました。しかし、貿易政権であった豊臣政権は、金を必要としたので、金を納めさせましたが、その他には無干渉でした。

佐渡の金山は江戸初期には世界有数の産額を誇りましたが、中期以降は次第に衰えました。

人口は、12万を超えたこともありますが、減少傾向にあり、いまは6万台です。

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4月 (21)