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北前船(きたまえぶね)を運んだ対馬海流- 越後新潟は花火が盛んなところです。
次のようないわれがあるようです。 - 戦国時代、織田信長は火薬を盛んに使いました。
火薬製造の元締めは、堺の商人でした。 - しかし、江戸時代になると家康は鉄砲をきびしく取り締まりました。
このため火薬職人は、鉄砲から花火に鞍替えしました。 - これら花火職人は北前船に乗って越後にもやってきました。
越後は広く、花火を打ち上げるにも見るにも最適の地でした。
こうして、越後は花火王国になっていきました。 - 長岡花火は、日本3大花火のひとつです。
他は秋田の大曲、茨城の土浦です。
650mもの花を咲かせます。
長岡の花火は戦前も行われていましたが、
1947年に長岡復興の象徴として復活しました。 - 山本五十六の長岡は、1945年空襲を受け、1500人が犠牲になり、6万人が家を焼かれました。
長岡空襲といいます。 - 北前船のルートは、大阪→瀬戸内海→関門海峡→北陸→北海道の松前(函館近辺)でした。
対馬海流は、小走りぐらいのスピードで走っています。 - 1609 年家康は、船は500石積み以下とすることと決めました。
マストは1本だけにし、甲板(かんぱん)は禁止でした。
この禁令により、波の荒い太平 洋岸の航海は不可能になり、北前航路ができたのでした。