2007年6月19日火曜日

北前航路で花火王国になった新潟

北前船(きたまえぶね)を運んだ対馬海流

  • 越後新潟は花火が盛んなところです。
    次のようないわれがあるようです。
  • 戦国時代、織田信長は火薬を盛んに使いました。
    火薬製造の元締めは、堺の商人でした。
  • しかし、江戸時代になると家康は鉄砲をきびしく取り締まりました。
    このため火薬職人は、鉄砲から花火に鞍替えしました。
  • これら花火職人は北前船に乗って越後にもやってきました。
    越後は広く、花火を打ち上げるにも見るにも最適の地でした。
    こうして、越後は花火王国になっていきました。
  • 長岡花火は、日本3大花火のひとつです。
    他は秋田の大曲、茨城の土浦です。
    650mもの花を咲かせます。
    長岡の花火は戦前も行われていましたが、
    1947年に長岡復興の象徴として復活しました。
  • 山本五十六の長岡は、1945年空襲を受け、1500人が犠牲になり、6万人が家を焼かれました。
    長岡空襲といいます。
    • 『にいがた観光通信』2007年、Vol33
  • 北前船のルートは、大阪→瀬戸内海→関門海峡→北陸→北海道の松前(函館近辺)でした。
    対馬海流は、小走りぐらいのスピードで走っています。
  • 1609 年家康は、船は500石積み以下とすることと決めました。
    マストは1本だけにし、甲板(かんぱん)は禁止でした。
    この禁令により、波の荒い太平 洋岸の航海は不可能になり、北前航路ができたのでした。

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