2007年10月27日土曜日

新潟県の観光客数


2007年10月8日月曜日

新潟県の山脈と丘陵



  • 東頸城(ひがしくびき)丘陵
  • 魚沼丘陵は、十日町市、魚沼市、長岡市に
  • 越後山脈は、新潟県、福島県、群馬県の県境に位置します。
  • 飯豊(いいで)山地は、越後山脈の北部にあります。

2007年10月2日火曜日

信濃川の源流は甲武信ヶ岳


  • 甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)のいただきに降った雨水は、甲州(山梨)、武州(埼玉)、信州(長野)へ流れていきます。
  • 信州では、千曲川→信濃川を通り→日本海に注ぎます。信濃川は日本でもっとも長い川です。
  • 甲州、山梨では、笛吹川→ 富士川→ 駿河湾へ流れます。
  • 武州、埼玉では、荒川→ 東京湾へそそぎます。

2007年9月23日日曜日

新潟県の2大河川


2007年9月14日金曜日

新潟県の平野と盆地


新潟県の平野と盆地
  • 越後平野は、信濃川、阿賀野川流域に広がり、東京都ほどの大きさです。
    コシヒカリなどで有名な穀倉地帯です。
    微高地では、ナシ、スイカ、チューリップが栽培されます。

2007年8月24日金曜日

長岡市は野菜でも有名

川の水は美容成分を多く含む化粧水でもあります。
色白のすべすべ肌の秋田美人、越後美人、金沢美人は、川の化粧水がつくりあげました。

信濃川は長岡市で最大の幅になります。
化粧水の豊かな長岡で、野菜が注目を集めています。


わたしの友人キノコ博士は、長岡市で、「花びらだけ」の栽培に取り組んでいます。
糖尿病の妙薬になりそうとのことです。

2007年8月5日日曜日

桑名藩の飛び地だった柏崎

  • 上杉の越後をおそれた徳川幕府は、越後をずたずたにしました。
  • 幕末には11藩に分割しました。
    長岡藩、村上藩、高田藩、糸魚川藩、 新発田藩、村松藩、与板藩、三根山藩、三日市藩、黒川藩です。
    石高は最大の高田藩でも15万石におさえました。
  • また、天領を今の新潟市など6カ所につくりました。
    天領は幕府の直轄領です。
  • さらに、6カ所を飛び地にして他藩に経営させました。
    柏崎も伊勢の桑名藩の飛び地にしました。
    小千谷も会津藩の飛び地にしました。
    このほかに米沢藩、上ノ山藩、高崎藩、沼津藩などにも飛び地をあてがいました。
  • 会津藩主の松平容保(かたもり)は、戊辰戦争で最後まで徳川側につき、会津で、また飛び地の小千谷などで戦いました。
    司馬遼太郎の『峠』は、長岡とその南にある小千谷の地形から題名をとった、ものと記憶しています。
  • 伊勢の桑名藩は、有数の親藩でした。
    桑名藩主松平定敬(さだあき)は、松平容保(かたもり)の弟でした。
    定敬(さだあき)も、幕府側につき、桑名から柏崎に移り最後まで新政府軍に抵抗しました。


2007年7月31日火曜日

柏崎原発は新潟県に電力供給していない

  • 柏崎刈羽原子力発電所は、世界最大の原子力発電所です。
  • 柏刈原発(かしかりげんぱつ)は、東京電力の原子力発電所なので、新潟県に電力を供給していません。新潟県は東北電力のエリアです。
  • 2002年の東京電力原発トラブル隠し問題で、国民は今回の事件にも疑いを持っており、新潟の海全体が汚染されたようなイメージをいだき、それが新潟県に風評被害をもたらしています。
  • 長岡市寺泊(てらどまり)から佐渡の赤泊(あかどまり)への航路を、両泊(りょうどまり)といいます。魚のアメ横とよばれる寺泊では、人出も例年の閑古鳥が鳴いています。
  • なお、新潟県の周波数は東京と同じ50ヘルツですが、佐渡は60ヘルツです。

2007年7月28日土曜日

『北越雪譜(せっぷ)』の鈴木牧之(ぼくし)

  • 夏用のスーツをもとめたら越後製でした。
  • 越後上布は、雪が作り出します。
    布を雪さらしにすると、オゾンによる漂白作用で、独特の風合いが加わります。
    重要無形文化財の越後上布の技法で、塩沢紬(つむぎ)小千谷縮(ちぢみ)十日町絣(かすり)がつくられます。

    これらは豪雪地帯の宿命を逆手にとり、気力で名産品に仕立て上げられました。
  • 鈴木牧之(ぼくし)はのべました。
    「雪中に糸をなし、雪中に織り、雪水に濯(そそ)ぎ、雪上に晒(さら)す。雪ありて縮(ちぢみ)あり。されば越後縮(ちぢみ)は、雪と人と気力相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親というべし。」(『北越雪譜』)
  • 鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』は、雪国の暮らしを最初に紹介した貴重な文献です。
    江戸に出向いた牧之(ぼくし)は、江戸の人々が越後の雪の多さを知らないことに驚き、雪を主題とした随筆で地元を紹介しようと執筆をはじめました。
  • 『北越雪譜』は、雪の結晶、雪国の風俗、暮らし、方言、産業などの諸相を、挿絵も交えて雪国の宿命を詳細に記した一種の雪国百科です。1837年に出版されるとベストセラーとなりました。
  • 牧之(ぼくし)は、文筆だけでなく、俳句を好み、絵をものし、書にも堪能でした。
    一茶との交流もありました。
    南魚沼市塩沢【中越の地図】で家業の縮の商いでも成功を収めました。
    また貧民の救済も行いました。
  • その昔、この塩沢紬(つむぎ)や小千谷縮(ちぢみ)、十日町絣(かすり)などの越後上布を集めて、全国にシアワセを配給した拠点が、いま地震でお困りの柏崎でした。


2007年7月25日水曜日

柏崎市のリケンは理研の申し子

  • 柏崎市のリケンは自動車のピストンリングでシェアの5割を占めていて、12社全社に製品を納入しています。
    中越沖地震で自動車の減産11万台にのぼります。
    リケンは、理化学研究所(理研)が設立しました。
  • 埼玉県にある理化学研究所(理研)は、日本で唯一の自然科学の総合研究所です。
    鈴木梅太郎、寺田寅彦、中谷宇吉郎、長岡半太郎、池田菊苗、本多光太郎、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄などもこことかかわりがあります。
  • 大河内正敏(おおこうち まさとし)所長は、基礎研究を重んじました。農村への工場設置を唱え、1932年柏崎にピストンリングの工場をつくりました。リケンです。
    この会社は、継続と努力、発明でいきのこってきました。
  • 柏崎出身の田中角栄は大河内正敏にかわいがられました。 1943年に 田中土建工業を設立し、 理研工業(理化学研究所の産業部門)などの仕事で急成長しました。

2007年7月19日木曜日

越の変遷

越(えつ)の変遷図(クリックで拡大)

越(えつ)は上図のように5段階の変遷をたどりました。
越は長く閉鎖地帯であり、大化の改新後に3つに分けられ、823年に7カ国になりました。
  • 第1期
    • 北陸全体が、越(こし)の国とよばれました。
  • 第2期
    • 越前、越中、越後に3分割されました。
  • 第3期
    • 豊かな越前が越前、加賀、能登に分けられました。
  • 第4期
    • 若狭と佐渡が加わりました。
    • 若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の7地域となりました。
  • 第5期
    • 現在の福井県、石川県、富山県、新潟県となりました。

北陸3県といえば、福井(若狭、越前)、石川(加賀、能登)、富山(越中)のことです。この3県は比較的よくまとまっています。

北陸地方といえば、新潟県も入ります。新潟県は、北陸地方に入ったり、関東甲信越地方に入ったり、上信越地方に区分されたりします。


作図メモ
  • 第3期の越前、加賀、越中 2*1。越後4*1。能登2*1

2007年7月11日水曜日

越(こし)の国とは越前、越中、越後のこと

越(こし)の国


  • 越(こし)の国は、のちに越前(福井県、石川県)、越中(富山県)、越後(新潟県)に別れました。都の京都から見て手前にある地域を越前とよびました。
  • のちに越前が加賀、能登を生みました。
    718年に能登が越前から分かれました。
    さらに823年に加賀が越前から分かれました。
  • 越の国には、大陸、半島から多くの移民が来て文化を豊かにしたとといわれています。

2007年7月3日火曜日

新潟県の6エリア

新潟県の6エリア


新潟県の区分法のひとつに上のようなものがあります。
  • 新発田・村上、新潟・阿賀→ 下越地方
  • 長岡・柏崎、湯沢・魚沼→ 中越地方
  • 妙高・上越→ 上越地方

2007年6月23日土曜日

夏の湯沢は高原植物

湯沢高原 アルプの里
冬の越後湯沢は、スキー、温泉で有名です。
夏は高原植物がお招きです。

166人乗りのゴンドラで10分足らずで湯沢高原アルプの里につきます。
自然保護や健康志向の高まりもあるのでしょう中高年のバックパック姿が目立ちます。

幻の花 「ヒマラヤの青いケシ」

日本一のロックガーデンは、上越新幹線の大清水トンネ ルをつくったときの岩石でつくられました。

ここに、1000種の高山植物の主役「ヒマラヤの青いケシ」がひっそりとたたずんでいます。
高山植物は、きびしい環境のせいで、小さくちょろちょろ咲きます。

坂東眞理子の『女性の品格』には、「花の名前を覚えましょう」とあります。

アヤメヶ池

ピッツアレストラン

レストランは2007年6月にリニューアルしたばかりです。
日本ケーブルの経営になります。高橋支店長がご意見をお伺いしたいというので、観光情報学会の大内会長共々以下をのべました。
  • 2階には、オープンエアのベランダがほしい。すがすがしい高原の里にきて、屋内に閉じこめられたくない。
  • 1階のコーラの傘とテーブルは、地元湯沢の木製のものがふさわしい。
  • ガーデンはコンクリートではなく、土で固めてほしい。
アルプの里では、ボブスレー、ゴーカートも楽しめ、いずれ天体ウォッチも仲間入りしそうです。

2007年6月19日火曜日

北前航路で花火王国になった新潟

北前船(きたまえぶね)を運んだ対馬海流

  • 越後新潟は花火が盛んなところです。
    次のようないわれがあるようです。
  • 戦国時代、織田信長は火薬を盛んに使いました。
    火薬製造の元締めは、堺の商人でした。
  • しかし、江戸時代になると家康は鉄砲をきびしく取り締まりました。
    このため火薬職人は、鉄砲から花火に鞍替えしました。
  • これら花火職人は北前船に乗って越後にもやってきました。
    越後は広く、花火を打ち上げるにも見るにも最適の地でした。
    こうして、越後は花火王国になっていきました。
  • 長岡花火は、日本3大花火のひとつです。
    他は秋田の大曲、茨城の土浦です。
    650mもの花を咲かせます。
    長岡の花火は戦前も行われていましたが、
    1947年に長岡復興の象徴として復活しました。
  • 山本五十六の長岡は、1945年空襲を受け、1500人が犠牲になり、6万人が家を焼かれました。
    長岡空襲といいます。
    • 『にいがた観光通信』2007年、Vol33
  • 北前船のルートは、大阪→瀬戸内海→関門海峡→北陸→北海道の松前(函館近辺)でした。
    対馬海流は、小走りぐらいのスピードで走っています。
  • 1609 年家康は、船は500石積み以下とすることと決めました。
    マストは1本だけにし、甲板(かんぱん)は禁止でした。
    この禁令により、波の荒い太平 洋岸の航海は不可能になり、北前航路ができたのでした。

2007年6月10日日曜日

過疎を知らない胎内市黒川村

2000年11月、新潟市の銀座にあたる古町(ふるまち)で「どんどん」というお祭りをやっていました。屋台のそばと焼き鳥がおいしかったので、「どこからですか?」たずねたら、黒川村役場からの出張サービスだとのこと、早速黒川村へでかけることにしました。

新潟駅から南イリノイ大学のある中条(なかじょう)まで列車で1時間北上し、中条駅からバスで1時間乗りました。日本一豊かな村だそうです。若い人も多く過疎問題がありません。

伊藤孝次郎さんは1955年より村長をしています。75歳で海軍経理出身だそうです。採用辞令を渡した新入りの役場職員が今では退職する年齢に達しています。 12期48年の町長です。

30年間にわたり役場職員を1年間ヨーロッパの酪農場などの施設に派遣しています。外にでて日本をみ、自分の村をみるようにとの材育成計画からです。

黒川村や役場にはひっきりなしに見学者が訪れます。村長にアポをとるのに2ヶ月かかるとのことでした。役場職員は民間発想で腰が低いです。帰りがけに村役場の玄関をみたら「今日の視察団予定」の看板がかかっていました。

胎内(たいない)パークホテルにとまりました。1,2階が農林水産省の研修機関で、3,4階が国民宿舎です。公共機関からの補助をうまくつかってホテルを経営しているわけです。10年前から県外ナンバーの車も多くなりました。

事業はほとんどが村営です。以下のようなことがセールスポイントです。

  • スキー。 ゴルフ。 キャンプ。 テニス。 パラグライダー。 登山。 合宿。クアハウスクス(温泉浴)。。 遊園地と動物園。胎内フィッシングパーク。 胎内フラワーパーク。ポニー牧場。胎内川大噴水 ボート
  • 胎内高原ビール。 胎内牛。 胎内ハム。 黒豚。 馬刺。 そば処「みゆき庵」。越の胎内(地酒)
  • 黒川村郷土文化伝習館。日本最古の黒川油田。越後胎内観音。胎内昆虫の家。クレーストーン博士の館(黒川村粘土・鉱物資料館)

4冊本の『黒川村村誌』が出版されています。

黒川村は、いまは胎内市となっています。2000年の状況が今はどうなっているか、再訪したく思っています。

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【追記】2006年時点での黒川村の問題点です。
  • 胎内リゾートは1日2000万円の赤字
    • 長期計画がない  
    • 支配人が市職員で素人
    • 営業が弱い
  • ホテル宿泊者減は、暖冬も影響

2007年5月25日金曜日

新潟市は、日本海側初の政令指定都市

新潟市は、2007年政令市になりました。本州日本海側初です。権限と財源を県から移譲され、基本的に自己決定、自己責任で対応することとなり、最も自立した自治体であるといえます。17市が政令市です。

強いところはより強くという市場原理主義を反映したものでしょう。

新潟市の人口は80万で、新潟県の人口の3分の1を占めます。
いま新潟市のはずれにすむお年寄りは、市役所までいくのに半日がかりです。
国が電子政府をすすめたがるの

2007年5月16日水曜日

『新潟日報』が盛んな新潟

新潟では、『新潟日報』が盛んです。戦国時代の雄藩であったところは、地方新聞が盛んなようです。(cf. 司馬遼太郎)

  • 上杉謙信の『新潟日報』
  • 伊達政宗の『河北日報』
  • 長宗我部の『高知新聞』
  • 島津の『南日本新聞』
  • 信長、秀吉、家康の『中部日本新聞』

2007年5月13日日曜日

なぜ長岡藩は、学問が盛んだった?

世帯が10万石以下の小藩には、学問の盛んな藩が多いです。

越後の長岡藩、越前の大野藩、石見(いわみ)の津和野藩などがそうです。

大藩に対抗して存在を示すには、学問が格好の題材でした。偉い医者や学者を出すと、殿様は江戸城で大いばりできました。

シンガポール、イスラエル、スイスなどを彷彿させます。

長岡の逸材

  • 良寛:禅僧
  • 河合継之助:長岡藩軍事総督
  • 山本五十六: 連合艦隊司令長官
  • 小林虎三郎: 米百俵
  • 三島億二郎: 河合継之助を助けて藩政を改革
  • 井上円了: 東洋大学の創設者
  • 小金井良精(よしきよ): 人類学者。星新一の祖父
  • 堀口大學: 詩人
  • 櫻井よしこ: ジャーナリスト

2007年5月7日月曜日

日本海航路の拠点であった佐渡


明治までの上方からの奥州航路は、
大阪→ 瀬戸内海→ 下関→ 佐渡島→ …
であり、この日本海航路が日本経済の中枢を占めていました。当時は、佐渡から全国経済を見渡すことができました。

新潟港をめざす船もたいていは風待ちなどで佐渡に寄港しました。

佐渡の言葉が上方アクセントになっていて、越後弁とことなるのはこのためです。上方文化のあとは、村々の能舞台や京都をおもわせる家屋にしのばれます。

また佐渡は天領(幕府直轄領)でしたから、大量の江戸文化も入りました。

こうして、地の文化は上方文化で、支配層の文化は江戸文化となりました。

ゆったり生活できる天領であり、2大文化の洗礼を受けたためか、島民の気風は、越後とちがい、温和でのんびりしています。対馬暖流が島をめぐっているせいで、雪もさほど降りません。

越後は佐渡には関心を示さず、上杉謙信がはじめて占領しました。しかし、貿易政権であった豊臣政権は、金を必要としたので、金を納めさせましたが、その他には無干渉でした。

佐渡の金山は江戸初期には世界有数の産額を誇りましたが、中期以降は次第に衰えました。

人口は、12万を超えたこともありますが、減少傾向にあり、いまは6万台です。

2007年5月3日木曜日

2007年5月1日火曜日

新潟市のうわさ

chakuwikiから新潟市のうわさをまとめてみました。

  • 本州日本海側で最大の都市で、盟主になろうと画策しており、金沢、富山が抵抗。
  • 本州日本海側としては初の政令市に
  • 新潟市のシンボルは萬代橋
  • 新潟市の周りを長岡市にぐるっと取り囲まれている。
  • おそらく、昔は色々と見るべきところはあったのだろうが、なんでもかんでも破壊していった。
  • 金沢には華を感じるが新潟にはロシアや朝鮮という寒さを感じる。仙台は半歩ではなく一歩先(悲)。
  • 新潟市にもついに都心回帰現象の波が!市中心部に19F以上の高層マンションが続々と着工。
  • 新潟空港は国際線が充実。ロシア極東の中心都市ウラジオストックへは唯一の連絡窓口である。イルクーツクやハルビンなどマニアックな路線を多数抱える。

2007年4月29日日曜日

遊ぶまち新潟市

2000年、「新潟市郷土資料館」(いまは閉館)に入りました。

背丈ほどの竹をたてに割り、乾燥させて文字を記したものを「柱かけ」といいますが、それが新潟県指定文化財になっておりました。次のようなことが昔のことばでかかれてありました。

「用事があっても早く起きるようなことはするな。

暇があってもこつこつ働くようなことをするな。

金は恋のために使い、宝は酒に使え。…」


そうです。地元の人にいわせると、新潟市はあそぶ街です。

飲み屋が3000軒あります。それも市内一円どこにでもあります。町中が歓楽街です。1坪空き地があったら、新潟市民は飲み屋を始めます。

「杉の木と男は新潟では育たない」といわれます。
米がうまく、魚が新鮮で、酒が上等で、女性が従順でつくすので、男は飲んで遊んでふぬけになるからです。

天領だったせいで、お上まかせでのんきな土地柄です。
『堕落論』(新潮文庫 ) の著者 坂口安吾はこの地の人です。

小 沢昭一に『美人諸国ばなし』(新潮文庫 ) があります。

美人は日本海側では、秋田、新潟、石川、京都、島根と県を一つおきにとびこえて生まれます。

新潟美人は、信濃川、阿賀野川という川のきれいな 水で育つのでしょう。水が化粧水となるからでしょう。

そういえば、美人の産地は、きれいな水を必要とする織物の町でもあります。

新潟市には、芸子専門学校があり、いま80人が学んでいるそうです。
新潟の女性は口が堅いので、芸子に最適とのことです。



2007年4月27日金曜日

さかさ日本海地図でみえるもの <地図

さかさ日本海地図でみえるもの <地図


日本海をさかさにしてみると、日本海は波おだやかな湖であることがわかります。古来より大陸から多くの人々が日本をめざして渡海してきたことでしょう。石川県には野球の松井秀喜 、水泳の山中毅 、相撲の 輪島など大柄のスポーツ選手が目立つのも、大陸の渤海(ぼっかい)国などからの立派な体格の先祖に負っているのかもしれません。

輪島は、古代の大陸人が「倭島」とよんだことに由来するという説もあります。

義経がひよどりごえで使った馬は、小さな日本馬ではなく、大陸からの大柄の馬でした。

政治家には、田中角栄、加藤紘一のようにアメリカにきびしく、中国、ロシアよりのひとが目立ちます。

日本を、文化的にも、経済的にもゆたかにするためにも、日本海側は大陸との交流を一層深めてほしいものです。

2007年4月25日水曜日

新潟市東港に多くのパキスタン人

新潟市の東港地域には、ウルドゥー語がとびかうリトルパキスタンがあります。中古車輸出業などを営む200人ほどのパキスタン人が住んでいます。

日本語学校に通う子弟もいますが、問題は給食にあるようです。イスラム律法には、ハラルという食べ物規定があるからです。

将来、ここには、日本海側初の円屋根つきの本格モスクが登場することになっています。日本に30あるモスクのうち、円屋根は、2箇所だけです。(Muslims taking root in Niigata, Toyama ports, Japan Times、 2007年4月25日)

2007年4月23日月曜日

新潟人の性格

県民性ワールド によると、新潟県の男女の性格は、以下の通りです。

新潟の男性の性格

とにかく勤勉。昔の「毒消し売り」や「獅子舞」で代表されるように,真面目でコツコツ努力する人が多い。出稼ぎも多く,北海道や遠くハワイ・カナダなどにも出ていった。保守的で金銭的にも堅実で遊びも地味だが,見栄っ張りな一面も。但し,新潟市はドライなタイプが多い。

新潟の女性の性格

色白のいわゆる「新潟美人」が多い。男性に比べて明るく社交的で,情に厚く心優しい。辛抱強く包容力もあるし,世話好きだが,結構見栄っ張りなところも。男性と同様酒も強い。新潟市はフランクな人が多い

2007年4月21日土曜日

湯沢の風評被害って?

2004年10月の中越地震では、湯沢にはほとんど被害はありませんでした。

ところが観光客は、7割ほど減ってしまい倒産するホテル旅館もでました。観光客は湯沢に次のようなイメージをもちました。

  • 「湯沢~新潟駅不通」とのニュースが流れ、東京から湯沢へ行けないと思いこみました。
  • 何となく新潟はどこも大変だというイメージをもち、「だから湯沢も」と思いこみました。
  • 新幹線の表示に、「新潟方面への旅行をお控えください。」とあり、湯沢行きも控えました。
湯沢町は、メディアによる風評被害に対し次の対策をとりました。
  • JRおよび日本道路公団に対してあやまりやすい情報の提供中止を訴えました。
  • 携帯電話やE-MAILなどで湯沢は安全だとの情報を流しました。
  • 各宿泊施設はダイレクトメールを配信しました。
  • 6000円の運賃を500円としたワンコインバスを運行しました。
  • 新幹線を半額料金にしました。
  • 旅館のおかみさん50人が東京で「湯沢は大丈夫」キャンペーンをしました。(メディアの逆利用です。)
風評被害については、わたし桑原政則も会員の観光情報学会の沖縄大会で、大峰山荘の岸野裕さんが報告をしました。観光地は日頃から風評被害対策を講じておく必要があります。

2007年4月19日木曜日

新潟市が北京に事務所を設置

新潟市が北京に事務所を設置しました。(『新潟日報』2007年4月17日)

自治体が独自に北京に事務所を開くのは新潟市が初めてのことです。

新潟市は政令都市になり、東アジアを重視した施策を展開し、中国との関係を強化しています。

2007年4月18日水曜日

『雪国』の湯沢町

湯煙の向こうに『雪国』の碑。2007年4月12日


川端康成「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。」『雪国』


新潟県最南端の湯沢町は、1937年の『雪国』で全国に知れ渡りました。国境の長い長いトンネルを抜けて目にした白銀の世界は、いまでいえば日本から延々飛行機に乗ってたどりついた雪のカナダのようなものでしょう。はるけく来たるものかな、というのが実感だったでしょう。

湯沢には、スキーのメッカ苗場スキー場を中心に年間500万人が訪れます。かつては1000万人訪れました。

東京都湯沢町と言われるほどマンションが乱立したこともありました。

2007年4月17日火曜日

上越を通らない上越新幹線

上越新幹線は、東京~長岡(中越)~新潟市(下越 かえつ)を結ぶ路線です。

新潟県南部の上越を通っていません。上越市も通っていません。

なぜ上越新幹線は、上越地方を通らない? 【画像】


在来線に上越線があります。群馬県の高崎と新潟県の長岡を結ぶ線です。
群馬県の旧国名は、上野(こうづけ)です。
上野の「上」と越で、上越となります。
つまり、鉄道の上越とは、上野と越後の頭文字をあわせたもので、新潟県の上越地方とは関係ありません。

新潟県は、甲信越、北陸、中部地方?

新潟県は、一般的には、甲信越地方(新潟、長野、山梨)に属します。なお富山、石川、福井は北陸地方です。

歴史的には、北陸地方です。

学校では、また地図上では、中部地方になります。

関東甲信越というよびかたもあります。

このようにまちまちなのは、各省庁が勝手に区分していて、統括する機関がないからです。

11藩に分断された越後

徳川幕府は、上杉謙信1人がおさめていた強大な越後を、再来をおそれ、幕末には11藩に分割しました。

11藩とは、長岡、村上、高田、糸魚川、 新発田、村松、与板、三根山、三日市、黒川です。 最大の高田藩でも15万石です。

また、幕府の直轄領である天領を今の新潟市など6カ所につくりました。

また、小千谷など6カ所を会津藩の飛び地にしました。柏崎も桑名藩の飛び地で、このほかに米沢、上ノ山、高崎、沼津藩などの飛び地もありました。

幕府がいかに越後をこわがっていたかがわかります。

エッサって?


エッサ(越佐)とは、越後と佐渡、現在の新潟県のことです。

エツサともいいます。

佐渡へは、長岡市の寺泊(てらどまり)からも高速船「あいびす」が運行しています。寺泊~赤泊は両泊(りょうどまり)航路とよばれます。


首都圏→ 長岡駅→ 寺泊→ 佐渡コースの早期実現が望まれています。

新潟の男は甘えん坊で、女は忍耐強い

新潟では、家の跡継ぎである長男を兄者(あにじゃ)とよび、別格にあつかいます。大家族で母や姉が世話を焼いてくれるため、男子は甘えん坊で、自立心がとぼしくなりがちです。

「新潟では、杉の木と男の子は育たない」といわれるのもこのためです。

兄者をたてることを幼少からしつけられる女性は、忍耐つよく世話好きになります。「苦労をともにするなら越後女」といわれます。

新潟県の離婚率は全国最低クラスです。

【cf.】
武光誠『県民性の日本地図』文春新書

【追】
長岡では、兄者は、上の方では「あんさま」、一般家庭では「あんにゃ」とよばれます。次男以降は「おじ」となります。兄者の嫁は「ねえさん」とよばれます。

日本海の人はねばり強くてまじめ

日本海文化圏気質というものがあります。

新潟から島根にかけての人は、
粘り強くて、勤勉、まじめで人情にあついです。

上杉謙信が典型です。
人情家で、まじめな生き方をします。不言実行型です。自己宣伝が下手で、大それた野望をもちません。謙信を越後の人がしたうのは、たよりになるからでしょう。


【cf.】
武光誠『県民性の日本地図』文春新書

冬風は日本海を長旅して新潟を雪に


冬、シベリアから日本への風は、新潟方面への海上区間が最長となります。このため海風はたっぷり蒸気をふくむ余裕があります。
これも豪雪の理由です。
(もう一つの理由は、対馬海流という暖流が蒸気を蒸発させるからでした。)

《ふるさとは 大吹雪すと報ありて うずもれゆくか 茅(かや)の草原》

宮柊二(みやしゅうじ):北原白秋の秘書をつとめた歌人
宮柊二記念館

新潟市は、佐渡が屏風になるので、それほど積雪はありません。

九州や北海道は大陸と近いので、海風が湿り気をもつ暇がありません。

なぜ新潟は北海道より豪雪?

なぜ新潟は北海道より豪雪?



新潟沖を暖流の対馬海流が流れています。
暖流は水蒸気を多く蒸発させます。
新潟や富山にしめった重い雪が降るのはこのせいです。

北海道には、暖流がほぼ届きません。
そのため空気は乾き、雪もすくなくからっとしたものになります。

甲武信ヶ岳の雨は、千曲川、信濃川へ

甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)は、甲州、武州、信州の境にあります。新潟県と埼玉県は、この川を通じてもかろうじて接触があります。

  1. 甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)に降った雨は、千曲川、信濃川を経て、日本海にそそぎます。
  2. 山梨側に降ると、笛吹川、富士川を経て、太平洋にそそぎます。
  3. 埼玉方面では、荒川となり、東京湾にそそぎます。

<甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)の位置>

越後美人をつくる信濃川

甲州(山梨)、武州(埼玉)、信州の境の甲武信岳(こぶしがたけ)に端を発し、千曲川を通り、日本海へながれる信濃川は日本最長の川です。

色白の肌すべすべの越後美人は、美容成分をおおく含む信濃川の水で顔や体を毎日洗い、信濃川の水を飲料水としているからという説があります。

日本では美人の条件に、肌の占める割合が多いようです。古来、先人がきれいな滋養のある水を供給してくれる山や森を大事にしてきたのも、ひとつは美人を生むためでした。

「米百俵 」の小林虎三郎

長岡は質実剛健の気風で知られています。

戊辰戦争の戦火で、長岡は廃虚と化しました。
藩士たちは、 食うや食わずの生活をおくっていました。
長岡藩の窮乏を見かねてある藩から救援米百俵が贈られてきました。

戊辰戦争の中の北越戦争

小林虎三郎は「この百俵の米は文武両道に必要な学校の設立にあてる」と言い、新生長岡のため、百俵の米を学校設立のために売却しました。
長岡高校も米百俵ゆかりの学校です。
この故事は山本有三の戯曲『米百俵』により知られることになりました。
英訳もでています。

小林虎三郎は、佐久間象山の門下で、吉田松陰とならんで象門の二虎と称せられるほど学問に秀でていました。

長岡には、米百俵の質実剛健の精神は今に脈々として生き続けております。

小林虎三郎
米百俵で未来を創った男ー 小林虎三郎
小林虎三郎:ながおかweb再発見小林虎三郎の史跡
長岡藩

旅の効用は鳥になれること

  1. 旅に出ると、日常性から解放されるので、ものごとを遠くから鳥の目でながめることができ、日常を変える契機ともなります。

  2. 今回は「桑原政則オンライン」の構造についてみなおす機会が得られました。旅ではpcより携帯が王様です。携帯でも手軽に閲覧できるように、トップページの軽量化をはかることにしました。→http://www.aoikuma.com/

  3. わたしの旅のモットーは「怒りは家においておく」です。見知らぬ地へついたら、all smiles(全身ほほえみ)で ゆったりと行動し、何かにつけ「どうぞ、どうぞ」と人に譲ります。感謝され、感謝し、楽しい旅になります。

  4. 旅の予定は夏休みの課題と同じで、3分の1の達成率でよしとします。

  5. 旅をすると、物語がおそってきて、自分が豊かになります。特に歴史のあるところへの旅にそれがいえます。

  6. 旅には三つの過程、楽しみがあります。
    はじめは旅立つ前に本やインターネットで、机上の旅をすることです。
    2回目は、現実の旅です。
    3回目は、帰ってから旅を書き、追体験を楽しむことです。
    わたしの長岡体験は4回です。毎回あまり欲張らないので、訪問したいところがまだまだあります。

雪国は輸送が重要:山本五十六、田中角栄

山本五十六(いそろく)は、日本、ドイツ、イタリアの三国同盟に最後まで反対し続けました。連合艦隊司令長官として太平洋戦争の指揮をとり、搭乗機を撃墜されて戦死しました。

五十六は、輸送のもととなる石油の重要性に開眼し、ワシントンの日本大使館に駐在しているあいだ石油問題に取り組み、メキシコまで油田の調査に出かけました。

戦場におもむいた若人をうたった歌です。
「益荒男(ますらお)の行くてふ道を ゆききわめ わが若人ら 遂にかへらず」


山本帯刀(たてわき)は、長岡藩の有力者で河合継之助の藩の改革にも大いに協力しました。維新後は山本家は廃絶されました。この山本家を再興する形で継いだのが、山本五十六です。五十六は父が56歳のとき生まれました。


長 岡市は田中角栄の選挙地盤でした。角栄も五十六を習ってか、輸送、燃料の重要性に気づき、アメリカのみに頼っているのは危険だと、中国に近づき、ソ連のウ ランにも目をつけました。これがアメリカの逆鱗に触れ、ロッキード事件を意図的におこされつぶされました。関越自動車道、上越新幹線は角栄の遺産です。
雪国の人は輸送手段の確保に心を配ります。上杉謙信が天下を取れなかったのは、雪に道をはばまれたからでした。

佐川急便の創始者佐川清も新潟県生まれです。

タグ:山本五十六、田中角栄

常在学習の時代:河合継之助、長岡高校

秒進分歩の乱の時代にあっては、どこにあっても学習する心がけが必要です。
「質実剛健」「常在戦場」の新潟県長岡市は、乱の時代の模範生です。
常在戦場とは、常に戦場にいる気構えで行動せよ、ということです。
「常在戦場」は長岡市民には膾炙(かいしゃ)しています。

上越は下越(かえつ)の下にある 【画像】中越の位置

新潟県4地域の中核都市【画像】 長岡市の位置


<第11代藩主 牧野忠恭(ただゆき)の書>

「質実剛健」「常在戦場」の精神風土は、長岡藩主牧野氏に由来します。
牧野氏は、家康と同じく三河出身でいわば徳川一家の身内です。
奥羽越列藩同盟で最後まで徳川軍についたのもこのためです。

新潟県の長岡駅は、長岡城の本丸があったところに鎮座しています。
長岡駅からはるか東方に鋸山(のこぎりやま)がかすんで見えます。
鋸山は、「川」の字の雪形(ゆきがた)で有名です。


<長岡高校体育館。1963年完成。解体前の記念として撮影>

鋸山から目を下に落とすと、バンコクのホアランポン駅 【画像】)(タイの東京駅)を彷彿させる建物が目に入ります。
長岡高校体育館です。



<長岡高校記念資料館。長岡の貴重な資料の宝庫>

体育館の手前に長岡高校記念資料館があります。
1915年に起源を発するこの記念館は、観光ルートからはずれていますが、長岡に関する資料の宝庫です。
河合継之助記念館、山本五十六記念館よりもはるかに充実しています。

長岡高校記念資料館


長岡高校の淵源には、小林虎三郎、三島億二郎、井上円了がかかわっています。

小林虎三郎は、佐久間象山門下で吉田松陰とならんで両虎と称せられました。
戊辰戦争で灰燼に帰した長岡におくられてきた救援米を学校設立の基金にしました。
長岡高校もそのひとつです。
米百俵で有名です。

三島億二郎は、河合継之助を助けて藩政を改革し、長岡の復興につとめました。

井上円了は東洋大学の創設者です。




<山本五十六と「常在戦場」>

河合継之助の座右銘も「常在戦場」、河合継之助を尊敬したこの学校出の山本五十六の信条も「常在戦場」でした。


<河合継之助の日記「塵壺(ちりつぼ)」>

館内には、卒業生堀口大学の作詞した長岡高校第2校歌【音声あり】の原本もあります。
卒業生の著書コーナーもあり、櫻井よしこも並んでいました。

「常在戦場」は、今風に翻訳すると「常在学習」(どこにあっても学習する気構えであれ)とでもなりましょうか。

長岡高校出身の著名人ウィキペディア

中越地震直後の長岡高校内部【画像】

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