新潟県の観光客数
- 2005年の新潟県の観光客数です。
- 新潟県の観光・イベント新潟県
新潟県、日本海側地方についてのコラムです。
川の水は美容成分を多く含む化粧水でもあります。
色白のすべすべ肌の秋田美人、越後美人、金沢美人は、川の化粧水がつくりあげました。
信濃川は長岡市で最大の幅になります。
化粧水の豊かな長岡で、野菜が注目を集めています。
北陸3県といえば、福井(若狭、越前)、石川(加賀、能登)、富山(越中)のことです。この3県は比較的よくまとまっています。
北陸地方といえば、新潟県も入ります。新潟県は、北陸地方に入ったり、関東甲信越地方に入ったり、上信越地方に区分されたりします。
2000年11月、新潟市の銀座にあたる古町(ふるまち)で「どんどん」というお祭りをやっていました。屋台のそばと焼き鳥がおいしかったので、「どこからですか?」たずねたら、黒川村役場からの出張サービスだとのこと、早速黒川村へでかけることにしました。
新潟駅から南イリノイ大学のある中条(なかじょう)まで列車で1時間北上し、中条駅からバスで1時間乗りました。日本一豊かな村だそうです。若い人も多く過疎問題がありません。
伊藤孝次郎さんは1955年より村長をしています。75歳で海軍経理出身だそうです。採用辞令を渡した新入りの役場職員が今では退職する年齢に達しています。 12期48年の町長です。
30年間にわたり役場職員を1年間ヨーロッパの酪農場などの施設に派遣しています。外にでて日本をみ、自分の村をみるようにとの材育成計画からです。
黒川村や役場にはひっきりなしに見学者が訪れます。村長にアポをとるのに2ヶ月かかるとのことでした。役場職員は民間発想で腰が低いです。帰りがけに村役場の玄関をみたら「今日の視察団予定」の看板がかかっていました。
胎内(たいない)パークホテルにとまりました。1,2階が農林水産省の研修機関で、3,4階が国民宿舎です。公共機関からの補助をうまくつかってホテルを経営しているわけです。10年前から県外ナンバーの車も多くなりました。
事業はほとんどが村営です。以下のようなことがセールスポイントです。
4冊本の『黒川村村誌』が出版されています。
黒川村は、いまは胎内市となっています。2000年の状況が今はどうなっているか、再訪したく思っています。
===============================新潟市は、2007年政令市になりました。本州日本海側初です。権限と財源を県から移譲され、基本的に自己決定、自己責任で対応することとなり、最も自立した自治体であるといえます。17市が政令市です。
強いところはより強くという市場原理主義を反映したものでしょう。
新潟市の人口は80万で、新潟県の人口の3分の1を占めます。
いま新潟市のはずれにすむお年寄りは、市役所までいくのに半日がかりです。
国が電子政府をすすめたがるの
新潟では、『新潟日報』が盛んです。戦国時代の雄藩であったところは、地方新聞が盛んなようです。(cf. 司馬遼太郎)
世帯が10万石以下の小藩には、学問の盛んな藩が多いです。
越後の長岡藩、越前の大野藩、石見(いわみ)の津和野藩などがそうです。
大藩に対抗して存在を示すには、学問が格好の題材でした。偉い医者や学者を出すと、殿様は江戸城で大いばりできました。
シンガポール、イスラエル、スイスなどを彷彿させます。
長岡の逸材
明治までの上方からの奥州航路は、
大阪→ 瀬戸内海→ 下関→ 佐渡島→ …
であり、この日本海航路が日本経済の中枢を占めていました。当時は、佐渡から全国経済を見渡すことができました。
新潟港をめざす船もたいていは風待ちなどで佐渡に寄港しました。
佐渡の言葉が上方アクセントになっていて、越後弁とことなるのはこのためです。上方文化のあとは、村々の能舞台や京都をおもわせる家屋にしのばれます。
また佐渡は天領(幕府直轄領)でしたから、大量の江戸文化も入りました。
こうして、地の文化は上方文化で、支配層の文化は江戸文化となりました。
ゆったり生活できる天領であり、2大文化の洗礼を受けたためか、島民の気風は、越後とちがい、温和でのんびりしています。対馬暖流が島をめぐっているせいで、雪もさほど降りません。
越後は佐渡には関心を示さず、上杉謙信がはじめて占領しました。しかし、貿易政権であった豊臣政権は、金を必要としたので、金を納めさせましたが、その他には無干渉でした。
佐渡の金山は江戸初期には世界有数の産額を誇りましたが、中期以降は次第に衰えました。
人口は、12万を超えたこともありますが、減少傾向にあり、いまは6万台です。
chakuwikiから新潟市のうわさをまとめてみました。
2000年、「新潟市郷土資料館」(いまは閉館)に入りました。
背丈ほどの竹をたてに割り、乾燥させて文字を記したものを「柱かけ」といいますが、それが新潟県指定文化財になっておりました。次のようなことが昔のことばでかかれてありました。
「用事があっても早く起きるようなことはするな。
暇があってもこつこつ働くようなことをするな。
金は恋のために使い、宝は酒に使え。…」
そうです。地元の人にいわせると、新潟市はあそぶ街です。
飲み屋が3000軒あります。それも市内一円どこにでもあります。町中が歓楽街です。1坪空き地があったら、新潟市民は飲み屋を始めます。
「杉の木と男は新潟では育たない」といわれます。
米がうまく、魚が新鮮で、酒が上等で、女性が従順でつくすので、男は飲んで遊んでふぬけになるからです。
天領だったせいで、お上まかせでのんきな土地柄です。
『堕落論』(新潮文庫 ) の著者 坂口安吾はこの地の人です。
小 沢昭一に『美人諸国ばなし』(新潮文庫 ) があります。
美人は日本海側では、秋田、新潟、石川、京都、島根と県を一つおきにとびこえて生まれます。
新潟美人は、信濃川、阿賀野川という川のきれいな 水で育つのでしょう。水が化粧水となるからでしょう。
そういえば、美人の産地は、きれいな水を必要とする織物の町でもあります。
新潟市には、芸子専門学校があり、いま80人が学んでいるそうです。
新潟の女性は口が堅いので、芸子に最適とのことです。
さかさ日本海地図でみえるもの <地図
日本海をさかさにしてみると、日本海は波おだやかな湖であることがわかります。古来より大陸から多くの人々が日本をめざして渡海してきたことでしょう。石川県には野球の松井秀喜 、水泳の山中毅 、相撲の 輪島など大柄のスポーツ選手が目立つのも、大陸の渤海(ぼっかい)国などからの立派な体格の先祖に負っているのかもしれません。
輪島は、古代の大陸人が「倭島」とよんだことに由来するという説もあります。
義経がひよどりごえで使った馬は、小さな日本馬ではなく、大陸からの大柄の馬でした。
政治家には、田中角栄、加藤紘一のようにアメリカにきびしく、中国、ロシアよりのひとが目立ちます。
日本を、文化的にも、経済的にもゆたかにするためにも、日本海側は大陸との交流を一層深めてほしいものです。
新潟市の東港地域には、ウルドゥー語がとびかうリトルパキスタンがあります。中古車輸出業などを営む200人ほどのパキスタン人が住んでいます。
日本語学校に通う子弟もいますが、問題は給食にあるようです。イスラム律法には、ハラルという食べ物規定があるからです。
将来、ここには、日本海側初の円屋根つきの本格モスクが登場することになっています。日本に30あるモスクのうち、円屋根は、2箇所だけです。(Muslims taking root in Niigata, Toyama ports, Japan Times、 2007年4月25日)
2004年10月の中越地震では、湯沢にはほとんど被害はありませんでした。
ところが観光客は、7割ほど減ってしまい倒産するホテル旅館もでました。観光客は湯沢に次のようなイメージをもちました。
新潟市が北京に事務所を設置しました。(『新潟日報』2007年4月17日)
自治体が独自に北京に事務所を開くのは新潟市が初めてのことです。
新潟市は政令都市になり、東アジアを重視した施策を展開し、中国との関係を強化しています。
上越新幹線は、東京~長岡(中越)~新潟市(下越 かえつ)を結ぶ路線です。
新潟県南部の上越を通っていません。上越市も通っていません。
なぜ上越新幹線は、上越地方を通らない? 【画像】
新潟県は、一般的には、甲信越地方(新潟、長野、山梨)に属します。なお富山、石川、福井は北陸地方です。
歴史的には、北陸地方です。
学校では、また地図上では、中部地方になります。
関東甲信越というよびかたもあります。
このようにまちまちなのは、各省庁が勝手に区分していて、統括する機関がないからです。
徳川幕府は、上杉謙信1人がおさめていた強大な越後を、再来をおそれ、幕末には11藩に分割しました。
11藩とは、長岡、村上、高田、糸魚川、 新発田、村松、与板、三根山、三日市、黒川です。 最大の高田藩でも15万石です。
また、幕府の直轄領である天領を今の新潟市など6カ所につくりました。
また、小千谷など6カ所を会津藩の飛び地にしました。柏崎も桑名藩の飛び地で、このほかに米沢、上ノ山、高崎、沼津藩などの飛び地もありました。
幕府がいかに越後をこわがっていたかがわかります。
新潟では、家の跡継ぎである長男を兄者(あにじゃ)とよび、別格にあつかいます。大家族で母や姉が世話を焼いてくれるため、男子は甘えん坊で、自立心がとぼしくなりがちです。
「新潟では、杉の木と男の子は育たない」といわれるのもこのためです。
兄者をたてることを幼少からしつけられる女性は、忍耐つよく世話好きになります。「苦労をともにするなら越後女」といわれます。
新潟県の離婚率は全国最低クラスです。
【cf.】
武光誠『県民性の日本地図』文春新書
【追】
長岡では、兄者は、上の方では「あんさま」、一般家庭では「あんにゃ」とよばれます。次男以降は「おじ」となります。兄者の嫁は「ねえさん」とよばれます。
日本海文化圏気質というものがあります。
新潟から島根にかけての人は、
粘り強くて、勤勉、まじめで人情にあついです。
上杉謙信が典型です。
人情家で、まじめな生き方をします。不言実行型です。自己宣伝が下手で、大それた野望をもちません。謙信を越後の人がしたうのは、たよりになるからでしょう。
冬、シベリアから日本への風は、新潟方面への海上区間が最長となります。このため海風はたっぷり蒸気をふくむ余裕があります。
これも豪雪の理由です。
(もう一つの理由は、対馬海流という暖流が蒸気を蒸発させるからでした。)
《ふるさとは 大吹雪すと報ありて うずもれゆくか 茅(かや)の草原》
宮柊二(みやしゅうじ):北原白秋の秘書をつとめた歌人
宮柊二記念館
新潟市は、佐渡が屏風になるので、それほど積雪はありません。
九州や北海道は大陸と近いので、海風が湿り気をもつ暇がありません。
甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)は、甲州、武州、信州の境にあります。新潟県と埼玉県は、この川を通じてもかろうじて接触があります。
甲州(山梨)、武州(埼玉)、信州の境の甲武信岳(こぶしがたけ)に端を発し、千曲川を通り、日本海へながれる信濃川は日本最長の川です。
色白の肌すべすべの越後美人は、美容成分をおおく含む信濃川の水で顔や体を毎日洗い、信濃川の水を飲料水としているからという説があります。
日本では美人の条件に、肌の占める割合が多いようです。古来、先人がきれいな滋養のある水を供給してくれる山や森を大事にしてきたのも、ひとつは美人を生むためでした。
長岡は質実剛健の気風で知られています。
戊辰戦争の戦火で、長岡は廃虚と化しました。
藩士たちは、 食うや食わずの生活をおくっていました。
長岡藩の窮乏を見かねてある藩から救援米百俵が贈られてきました。
戊辰戦争の中の北越戦争
小林虎三郎は「この百俵の米は文武両道に必要な学校の設立にあてる」と言い、新生長岡のため、百俵の米を学校設立のために売却しました。
長岡高校も米百俵ゆかりの学校です。
この故事は山本有三の戯曲『米百俵』により知られることになりました。
英訳もでています。
小林虎三郎は、佐久間象山の門下で、吉田松陰とならんで象門の二虎と称せられるほど学問に秀でていました。
長岡には、米百俵の質実剛健の精神は今に脈々として生き続けております。
小林虎三郎
米百俵で未来を創った男ー 小林虎三郎
小林虎三郎:ながおかweb再発見小林虎三郎の史跡
長岡藩
山本五十六(いそろく)は、日本、ドイツ、イタリアの三国同盟に最後まで反対し続けました。連合艦隊司令長官として太平洋戦争の指揮をとり、搭乗機を撃墜されて戦死しました。
五十六は、輸送のもととなる石油の重要性に開眼し、ワシントンの日本大使館に駐在しているあいだ石油問題に取り組み、メキシコまで油田の調査に出かけました。
戦場におもむいた若人をうたった歌です。
「益荒男(ますらお)の行くてふ道を ゆききわめ わが若人ら 遂にかへらず」
秒進分歩の乱の時代にあっては、どこにあっても学習する心がけが必要です。
「質実剛健」「常在戦場」の新潟県長岡市は、乱の時代の模範生です。
常在戦場とは、常に戦場にいる気構えで行動せよ、ということです。
「常在戦場」は長岡市民には膾炙(かいしゃ)しています。
上越は下越(かえつ)の下にある 【画像】中越の位置
新潟県4地域の中核都市【画像】 長岡市の位置