2007年4月17日火曜日

常在学習の時代:河合継之助、長岡高校

秒進分歩の乱の時代にあっては、どこにあっても学習する心がけが必要です。
「質実剛健」「常在戦場」の新潟県長岡市は、乱の時代の模範生です。
常在戦場とは、常に戦場にいる気構えで行動せよ、ということです。
「常在戦場」は長岡市民には膾炙(かいしゃ)しています。

上越は下越(かえつ)の下にある 【画像】中越の位置

新潟県4地域の中核都市【画像】 長岡市の位置


<第11代藩主 牧野忠恭(ただゆき)の書>

「質実剛健」「常在戦場」の精神風土は、長岡藩主牧野氏に由来します。
牧野氏は、家康と同じく三河出身でいわば徳川一家の身内です。
奥羽越列藩同盟で最後まで徳川軍についたのもこのためです。

新潟県の長岡駅は、長岡城の本丸があったところに鎮座しています。
長岡駅からはるか東方に鋸山(のこぎりやま)がかすんで見えます。
鋸山は、「川」の字の雪形(ゆきがた)で有名です。


<長岡高校体育館。1963年完成。解体前の記念として撮影>

鋸山から目を下に落とすと、バンコクのホアランポン駅 【画像】)(タイの東京駅)を彷彿させる建物が目に入ります。
長岡高校体育館です。



<長岡高校記念資料館。長岡の貴重な資料の宝庫>

体育館の手前に長岡高校記念資料館があります。
1915年に起源を発するこの記念館は、観光ルートからはずれていますが、長岡に関する資料の宝庫です。
河合継之助記念館、山本五十六記念館よりもはるかに充実しています。

長岡高校記念資料館


長岡高校の淵源には、小林虎三郎、三島億二郎、井上円了がかかわっています。

小林虎三郎は、佐久間象山門下で吉田松陰とならんで両虎と称せられました。
戊辰戦争で灰燼に帰した長岡におくられてきた救援米を学校設立の基金にしました。
長岡高校もそのひとつです。
米百俵で有名です。

三島億二郎は、河合継之助を助けて藩政を改革し、長岡の復興につとめました。

井上円了は東洋大学の創設者です。




<山本五十六と「常在戦場」>

河合継之助の座右銘も「常在戦場」、河合継之助を尊敬したこの学校出の山本五十六の信条も「常在戦場」でした。


<河合継之助の日記「塵壺(ちりつぼ)」>

館内には、卒業生堀口大学の作詞した長岡高校第2校歌【音声あり】の原本もあります。
卒業生の著書コーナーもあり、櫻井よしこも並んでいました。

「常在戦場」は、今風に翻訳すると「常在学習」(どこにあっても学習する気構えであれ)とでもなりましょうか。

長岡高校出身の著名人ウィキペディア

中越地震直後の長岡高校内部【画像】

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